2000/07/28
限界で見える真理の話
つい最近テレビを見ていたら、己の限界に挑戦することで見える真理みたいな話が出てきました。でも、それで真実は見えるんでしょうか。見えやしないでしょう。私は「限界で見える真理」とか、「極限における悟り」というものに対して疑いを持っています。限界において見えたと思う真理などまやかしにすぎないからです。
荒行苦行を廃して悟りが得られるわけがないという人が仏教の信者教祖にいます。そういう人は釈迦の説法を読み直して欲しいですね。仏教の開祖である釈迦はあらゆる苦行を行いながら、その中に真理も悟りも見出せないことを証明した人です。釈迦ほどの人をもってしても荒行ではその中に悟りは存在しなかったというのに一介の宗教人に過ぎない彼等が荒行苦行で悟りが開けるというのでしょうか。そんなのは仏教を自分の都合によって勝手に解釈しているに過ぎません。荒行苦行で悟りが開けるというのなら仏教を名乗るのを直ちにやめなさい。もっとも別に釈迦の話を持ち出すまでもなく、人間が極限状態において、まともな思考ができると思うほうがどうかしています。そもそも、人間は極限状態では視野が極端に狭くなります(これを視界狭窄と言います)。思考も単純化され、結果として得られた解は真理には程遠いものになります。ちなみにこの極限状態での視界狭窄を利用するのが洗脳ですね。ファナティティックな宗教団体に限らず、いわゆるマインドコントロールと呼ばれるものは、相手を極限状態に追い込んで思考能力を低下させることによって植え付けます。マインドコントロールと同じ状態に陥って得た真理とか悟りとかが本物だと思うなら、それこそ異常です。そこで得られたものは得られたと思い込むことによって作られた錯覚に過ぎません。真理とか悟りというものは日常において正常で明晰な思考の元で吟味しながら得られなければ、意味がないのです。
ちなみに真理とは誰でも納得する普遍で妥当性のある事象のことです。よってさる宗教団体のように文間読みなんていうのは真理とはまったくかけ離れた個人解釈にすぎないということを知っておきましょう。


 

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