2002/05/12
文章的作為の話
一見客観的に記述されているような文章であっても、実は作者の本音が見え隠れしているということがよくあります。
もちろん、完全な客観というのは、人である以上無理だと思いますし、また本人の主観が入るからこそ文章としての面白さが誕生するのは言うまでもありません。問題は、作者が自分の主観が入りこんでいること、つまり読者に対して誘導を行っているということを作者自身気づいてやっているのか、それとも無意識にやっているのかという点だと思います。最近読んだ本でもそのようなケースを見かけたので、ちょっと記述します。その本は、よくある雑学系の本なのですが、非常に面白いことに同じ現象にも関わらず、まったく逆の捕らえ方をしていました。その現象とは「ある特殊な状況がニュースになった」ということだったのですが、作者は、ある状況がニュースになったときは「ニュースに取り上げられるくらい多発している問題」と述べ、別の状況がニュースになったときは「ニュースになるくらい稀な問題」と述べていました。同じ現象であっても見方によってまるっきり逆になる好例です。恐らくこの作者はこれを無意識に行ったのだと思います(でなければ隣合うページで相矛盾するような文章は書かないだろう)が、前者のニュースに関しては本人は肯定的であり、後者のニュースに関しては本人が否定的であったのだろうと思われます。
私は、テーブルトークでは最初から客観などというものを捨てていますし、だからこそトップで「信じる信じないは自己責任で」と書いていますが、それでも、文章を何度も読み直して、そこに無意識の作為が存在しないか確認します。これをやらないと、私が本当は何を考えているのか、どう思っているのか、どんなことを好んでいるのかという、私の深層にある嗜好を、文章を読んでいる人に読み取られる可能性があるからです。それはある意味、私の心の中を覗かれているのと同じですから。これほど怖いことはありません。


 

Topへ