2002/05/02
メーデーの話2
続きです。
驚くべきことに、国家が8時間労働制を法律で定めたのは旧ソ連だったようです。それは1917年のことでした。国際連盟と同時に誕生し、後に国際連合と協定を結んだ最初の専門機関となったILO(国際労働機関)は1919年 の誕生当初に「1日8時間・週48時間」というメーデー準拠の第一号条約を定めますが、日本はいまだ批准していないようです(ILO東京支局の一覧による)。実質上はクリアしているはずなんですけどね。また、日本で初めてのメーデーは1920年の5月2日に行われました(人を集めやすいという判断から日曜だった2日にしたらしい)。場所は東京の上野公園でした。参加人数は5000人とも1万人とも言います。その後メーデーは2・26事件以降1946年まで中断します。戦後再開したメーデーですが、日米安保条約が発効した1952年のメーデー(通称「血のメーデー」)では死者まで出ました。神宮外苑から皇居前広場までデモ行進した労働者に対して警官が発砲、死者2名、重軽傷者多数、1200人以上が逮捕され、260人ほどが起訴されるという大きな事件は、しかしメーデーを揺るがすことはありませんでした。にも関わらず、私はメーデーに参加したことはありませんし、メーデーに参加したことのない人は多いと思います。これは日本でのメーデーが、団体同士の抗争の場と化してしまい、魅力がなくなってしまったこと、また1989年には団体同士の軋轢から複数に分裂し、ばらばらにメーデーを行うという失態をしでかすことで求心力と影響力の両方を失ってしまったからと考えられます。
ところで、メーデーというと、私はむしろ無線電話のメーデーを思い出します。国際無線通信規約で、「メーデー」はSOSと同じで、遭難時には3回コールすることになっているからです。日本のメーデーもすでにSOS状態じゃないでしょうか。とりあえず今は全労連と連合に別れていますが、ついでにもう一つ別れて3回コールしてみますか?
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