2001/05/25
上杉鷹山の話4
昨日の続きです。
米沢藩の地場産業は言ってみれば原料生産です。原料をひたすら生産して他国がそれを加工し、販売するというのが基本でした。これでは付加価値は生まれません。そこで生産業から加工業へと大転換を図ったのです。もちろん保守派が大勢おりましたので猛反対が出ます。彼等の反対意見を上杉鷹山は徹底的に潰しました。例えば加工を行おうとしても技術者がいないという意見には一時的に出費が多くなっても他国から技術者を招聘することで解決しましたし、原料が少ないという意見には士農工商を問わず家の庭や空き地、神社仏閣の境内まで木を植えさせました。漆、桑、楮、それぞれ百万本を植えたとあります。この数字には多少の誇張があるにしても、凄まじい数だったのは間違いないでしょう。労働者が足りないと言われれば老人や子供まで労働力として使い、それでも足りなければ城内の藩士まで使えば幾らでも人手はあると言い切ります(これが昨日書いた在宅勤務制度に繋がります)。藩士の妻まで労働力として使うことを勧めました。上杉鷹山は改革は自らの意志だけでは駄目だと考えておりましたので、藩士藩民一人一人に自覚を促しました。そのために警備もつけずに領内を歩き回り、自らの政策の浸透に尽力します。さらにただ領内を歩き回るだけではなく、彫り物を作っている老人を見かけるとそれを笹野の一刀彫と名づけて米沢名物として売り出し、田んぼを見つけるとそこに鯉を放すことで虫害を防ぐと共に糞による肥料効果、最後には鯉自体を食べる鯉料理を名物化する、という具合に多種多様に渡って政策を発表し、展開しました。そして遂に藩士の中には自ら荒れ地を開墾するため暇をもらいたいと言い出すものまで出てくるようになります。上杉鷹山は彼らに開墾後の数年間は無税といった優遇措置で対応しました。こうして上杉鷹山の革新政策は急激に浸透しますが、同時に保守派は追いつめられていきました。そして遂に彼等が爆発します。
明日に続きます。
前 後
Topへ