2000/07/06
日本語の話3
昨日の続きの前に、訂正です。ある親切なかたからメールでご指摘がありました。私自身調べたところ、「存じ」は謙譲語の「存じ上げる」つまり「存ず」ではなく、丁寧語である「存じ」という別系統の言葉のようです(念の為に書きますがこれはメールをくださった方の意見ではありません)。謹んで訂正させていただきます。では、予告通り、「れる」「られる」の話を書きます。
日本語は絶えず変化しています。特に近年になって目立つようになったのは「食べれる」や「見れる」という「れる」「られる」の間違いです。でもこの「ら抜き言葉」自身には私は肯定的なんです。「ら抜き言葉」肯定派は辞書の編纂で有名な金田一春彦氏が筆頭でしょう。そもそも「れる」「られる」という助動詞は実に四つの意味を持っています。「受身」「可能」「自発」「尊敬」ですね。わかりやすく、「見られる」、という言葉で説明しますと「密会現場を人に見られる(受身)」「晴れた日にはここから富士山を見られる(可能)」「すっかり秋の気配が見られる(自発)」「閣下が映画を見られる(尊敬)」という違いがあります。これだけの意味を同じ言葉から知らなければならないのです。このうち「尊敬」は明らかにわかりますし、「自発」はかなり特殊な使い方、感情でしか用いません。よって文章を見たときにもっとも区別できないのが「受身」と「可能」です。「にんじんが食べられる」は食べることができる(可能)のか食べられてしまう(受身)のか文脈からしか区別できないのです。そのうちの「可能」だけを独立させて「食べれる」とか「見れる」という書き方をしたほうが文章がわかりやすくなります。これは言葉の進化です。文部省はこれを全面的に否定しましたが、私は変えてもよいと思っています。
前回長々と書いた一生懸命という言葉も意味的には通じますし、これも、もともとが一所懸命だったということを知った上でなら認めてもよいと思っています。問題は知らないで間違えているということでしょう。これ以外にも普段から注意していると、間違いが幾らでも見つけられます(これは可能でしょうか、受身でしょうか?)が、これ以上書いても愚痴になりそうなのでそろそろ終わりにしますね。
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