えっと。今日はちょっと長文です。
最近話題の文章に、閉鎖するということというのがあります。

もなみの家は、かなり貧乏です。
もな兄が朝早くから、夜遅くまで働いて、借金を返しながらなんとか運営費を捻出しています。
もな兄は、大丈夫大丈夫なんて笑顔で言っていますケド、いつ倒れるかわかりません。
もし、もな兄が倒れたりしたら、お金が払えなくて、閉鎖しなければならないかもしれません。
それでも、公開した文章は全て、なんらかの方法で残さなければならないのでしょうか。
新たに借金をしてでも続けなければならないのでしょうか。

リンクする自由、アンリンクする自由と同じように開局する自由、閉鎖する自由は無いのでしょうか。
ネットって、いつからこんなに自由が無くなったのでしょう。

「文章は共有資源」。
なんだか、とっても耳に優しい言葉です。
でも、それって突きつめてみれば
「ネットのものは俺のもの、俺のものも俺のもの。管理者の持ち物なんか何一つ無く、それは俺のものなのだから、勝手に消すな」
という、ジャイアニズム。
ネットって、そんな世界なんですか?

情報って、古くなると価値を失うことがあります。
今は正しくても、数ヵ月後には間違っていることになるかも知れません。
何らかの理由で更新できなくなって、間違っていることがわかっている情報を修正できなくて、それを読んで間違った情報を得てしまった人に対する責任は存在しないのでしょうか。
訂正する自由を失う前に、削除しちゃいけないんでしょうか。

そもそもネットって、欲しい情報を得るという価値しか存在しないのでしょうか。
それって、凄く寂しいことだと思いませんか?

一期一会。
これは茶道での言葉です。
今、会っている人が、もう二度と会えないかもしれない。
だから、そのとき、そのときにできる精一杯のもてなしをしましょう。
それが一期一会です。
もなみはサイトを訪れてくれる人が二度と来てくれないかもしれないと思いますし、だから、その瞬間、その瞬間にもなみができる精一杯をしたいです。
だって。
ネットは悲しいくらいにコミュニケーションだもん。
運営者が居て、閲覧者が居て、そこにコミュニケーションが存在し、それがそのサイトの価値を生むと考えているんだもん。
コミュニケーションだから。
それができなくなったとき。
更新できないトカ、現実的な問題トカ、荒らされたというのは、充分な閉鎖の理由と感じるんだもん。

ネットからコミュニケーションという要素を全て排除し、ただ単に情報の集まりに過ぎないというのは、インターネットが学術的な目的で使用されていた時代に回帰する思想です。
それはそれで正しいのかも知れませんケド、本当にそれだけ、それだけの価値しか存在しないのでしょうか。

もし、あなたに好きなサイトがあるなら、そのサイトに、本当に情報としての価値しかないかどうか、考えてみてください。
情報としての価値だけのために、そのサイトが好きなのか、考えてみてください。
そこにコミュニケーションは存在しないのか、考えてみてください。

それがもなQからのお願いです。
閉鎖するということについて1
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