2002/01/08
中東問題の話2
イスラム諸国はもともとのイスラムの目的だった民族統一を見失い、一時はエジプトとシリアのアラブ連合国家成立の動きなどもありましたが、実際には多数の国に別れて、それぞれが団結しないというイスラム前の状態になってしまいました。これは「サイクス・ピコ協定」という策略が見事に決まった結果ということになります。さらにここに「シーア派」と「スンニー派」という対立もありました。今回はこれについて書きます。
そもそもマホメッドは亡くなるときに後継者を決めませんでした。そのため、後継者を誰にするかで揉めることになりました。結果として二つの流れができます。一つはモハメットの血統を重視し、宗教的権利も彼らに与えようという考えで、もう一つは後継者を選挙で選び、彼らに宗教的な権利は認めず、政治的権利だけを認め、宗教的権利はコーランとハディスに任せるという考えです。前者はマホメットの娘であるファティマとその夫でかつマホメットの従兄弟であるアリーの子孫のみを後継者としました。これを「シーア派」、選挙方式のほうを「スンニー派」と言います。現実的にはシーア派は一度、正当後継者であるホメイニ師がバーレビ王朝を追い出され、フランスに亡命していたことで滅びました。ところが、このバーレビ王朝の政策が失策続きであったため、ホメイニ師の復活を望む声が大きくなり、結果としてホメイニ師がイランに舞い戻り、シャー国王がエジプトに亡命してイスラム革命が起こりました。ここで問題なのはイスラム革命(仮にホメイニズムとしておく)が近隣アラブ諸国に拡散することを恐れたのがアメリカなどの外部圧力だけではなかったということです。ホメイニズムを認めてしまえば、シーア派を認めることになり自分たちの政治的権益が損なわれると判断したアラブ諸国は自国内にホメイニズムが入りこむことを恐れ、イラン包囲網を築きます。そしてこれがあのイラン・イラク戦争を勃発させることになったのです。
以上、突っ込んで書くと書いたわりにはあっさりになってしまいましたが中東については終わりです。
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