2001/05/23
上杉鷹山の話2
昨日の続きです。
藩主である上杉鷹山に蚊を追い払うよう命じられた佐藤文四郎は「蚊を追い払うために給与をもらっているのではない」と言い捨てます。その場で打ち首にされても仕方が無い状況でしたが、この文四郎という人物の態度にただならぬものを感じたのでしょう。上杉鷹山は思いとどまりました。実際、文四郎は上杉鷹山を試していたようです。その態度を見届けた文四郎は上杉鷹山を連れ出すと藩士の長屋で、あるものを見せます。それは老若男女を問わず、家族総出で徹夜で内職をする藩士達の姿でした。そして藩士が徹夜で内職しているほど事態は切迫しているというのに悪戯に書物を読んで時間を無駄にして何ができる、と上杉鷹山を叱りつけました。上杉鷹山はこの一件で自分の責任を知り、藁科松伯をリーダとする菁我社中と呼ばれる藩士達と知り合うことになります。菁我社中というのは全員が左遷された連中で構成されており、左遷された理由は上司に対して面と向かって意見を述べた、反抗した、といった理由でした。いわゆる反骨派であり、革新派であった菁我社中は細井平州という学者の弟子達でしたが、この細井平州という人は折衷派に属し、完全実学思想でした。上杉鷹山はこの菁我社中の意見を取りいれて、まずは江戸藩邸で実行することで、プロトタイピングテストを重ね、実績を積みます。そして、全ての準備を整えていざ米沢藩に戻ってみると、どの世にも革新を嫌がる保守派が存在するもので、特に借金地獄で首がまわらなくなっていた米沢藩内では現状よりも良い状況になるわけがないという冷めた空気が流れていましたから保守派が急激な巻き返しを行いました。しかし、上杉鷹山と菁我社中はこのことを予測してました。その場で国内の全ての藩士を集めさせるという、当時の常識からかけ離れた行為を行い、その場で自らの改革案を述べたのです。その改革案というものが、これまた日本に留まらず世界から見ても凄まじいものでした。
明日に続きます。


 

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